下北沢の「路字」

 下北沢から発信される、できたてのフリーペーパー「路字」。その0号を、今日、南陀楼さんが納品してくださりました。「本とコンピュータ」時代の同僚、仲俣暁生さんが編集をされているご縁だそうです。A3両面白黒リソグラフ印刷の4つ折り、という簡素なつくりですが、内容は充実してます。

      • 創刊の辞「変わりゆく町の中で、足下から考える」
      • ロジ的なるもの(金子賢三)
      • 「わたしのシモキタ地図!」座談会
      • 往復メール対談 スズキロク(娘)⇔毘(父)


といった内容。発行人は、つい最近まで「Save the 下北沢」の共同代表であった金子賢三氏ですが、それとはとりあえず一線を引き、

自分が住んでいたり、よく出かけていく場所について考えることは、自分の暮らしについて考えることと、深く結びついている。

という、もっと根源的な視点が、まず念頭にあるようです。加藤賢策によるデザインもシャれてますし、ぜひ、ご来店のうえお持ちください。


 で、ここからは個人的なことを少々。 
 下北沢は、19歳から23歳までの4年間ほどを過ごした町です。大原1丁目にあった六畳一間共同トイレのアパートには、2日と置かず、誰かしら友人知人がたむろし、あてもなく話し込んだり、黙って音楽に聴き入ったり、ミニコミを作ったりしてました。なので、ここでの座談会はとても懐かく、かれこれ20年近く前のあれこれを、ひさしぶりに思い出しました。たとえばこんなくだり。

仲俣 じゃあまず僕から。これ、大原にいた頃の地図です。(地図を指しながら)三河屋って酒屋があって、小さなポケットパークがあるでしょ。この角に下北沢一番街の大きなゲートがあって、それをくぐるとシモキタだった。その足で、一番街にあるイーハトーボ(喫茶)に通ったりしていました。

 
 仲俣さんとは住んでいた時期が違うのだけど、まったくこのまんまですから。「イーハトーボ」だけで、いったいどれだけの思い出があるのやら。
Voodoo
 カウンターに置いてあった『人間交差点』の揃い。中古レコードのコーナーで見つけた、ジョン・ゾーンソニー・クラークをカバーしたアルバム『Voodoo』。いつも頼んでいたフレンチローストの味。好きな曲がかかって思わず口笛を吹いたら店主の今沢さんに怒られたこと(今沢さんはよく吹いてらした)。そして、マイルスが死んだ夜。
 あんまりマイルスばかりかかるので、おかしいなと思っていたら、翌日その訃報に接しました。昨今のネット社会ではもうあり得ないような話ですが、いまでも「フットプリンツ」のイントロ、ロン・カーターが刻む印象的なベース・ラインを聴くと、あの晩のことを思い出します。


 当時、身分は学生でしたが、学校にはあまり行かず、ほんと毎日ぶらぶらしていました。でも、そのときのあれこれが、いまの仕事に結構繋がっているんですよね。よくある一日は、たとえばこんなふうでした。 
 昼頃起きると、友人と連れ立って駅前のドトールに行き、線路脇のテラスで、「アンゼリカ」で買ったパンなどをつまみながらコーヒーを飲み、腹ごしらえ。で、一息つけてから、当時北口から少し歩いた雑居ビルの2階にあったレコファンへ。ここの新入荷のコーナーは、毎日必ずチェックしていましたが、何を隠そう、これが古書ほうろうの「新入荷棚」のルーツ。

 そこからはその日の気分で、「白百合書店」や「ブックスおりーぶ」で新刊本を眺めたり、「セカンドハンズ」(いまのディスクユニオン)、「DORAMA」とひたすら中古盤を探し求めたり、あるいは「白樺書院」や「幻游社」で安い本を買ったり。植草甚一と懇意だった白樺書院は、自分にはちょっと敷居が高かったものの、とても好きだった店。1冊1冊薄紙で包まれた、いかにも古本といった佇まいの本たちが、くすんでいるのに眩しくって。広瀬正の『マイナス・ゼロ』や『エロス』の初版本もここではじめて見ましたが、高くて買えないのに何度も手に取ったものです。大事な本にグラシン紙をかけるところなど、間違いなく影響は受けていますね。
モダーンズ [DVD]
 夜は、南口商店街地下の「サラダの店 マック」で、ハンバーグや生姜焼きの定食を食べ、「DORAMA」で借りたビデオを見るのがパターン。友人とふたり、部屋の明かりを消して真剣に観たものです。当時はまだ名画座もそれなりにあったので(下北沢にはなかったけど)よくひとりであちこち出かけてはいましたが、それだとどうしても自分の好みに偏りがちになるんですよね。だから、他人が選んだものもじゃんじゃん観る、というのは貴重な経験でした。そんななか出会った一番のお気に入りは、アラン・ルドルフの『モダーンズ』。マーク・アイシャムによる素晴らしいサントラ盤は、いまでも時おり店でかけます。


 その後高円寺に越したあとも、何人かの友人は下北沢に残っていたので、こんどは「通いシモキタ」生活があらためてはじまるのですが、それはまた別の話。

(宮地)