一箱古本市ほうろう賞

 一箱古本市が終わって、もう1週間以上経ちました。開催当日までの長い長い日々を思うと、あっという間。ゴールデン・ウィークも明け、日常が戻ってきました(と思ったら、今日は買取り大爆発。計7人で段ボール20箱ほど。平日の日中にこんなにひっきりなしに持込みがあるなんてちょっと記憶にないですね)。

 さて、その一箱古本市ほうろう賞の副賞として、5月4日より「ふぉっくす舎」NEGIさんの一箱を展示販売しています。題して「小林信彦との訣別?」。古本市当日、多くの小林信彦ファンをギョッとさせた曰く付きの箱が、ほぼそのままの状態でほうろうにやってきました。1ヵ月間、このままずっと行くのか、あるいは途中まったく別のかたちに入れ替わるのかは、NEGIさんが箱を持ってみえた日に非番だったこともあってわからないのですが(個人的にはスポーツの箱などもみてみたい)、まだご覧になっていない方はお早めに。
 
 NEGIさんのこの箱は、珍しいものがたくさんあるとか、飛び切りお値打ちとかでは決してないのですが、小林信彦ファンなら身につまされずにはおられない、もやっとしたものが漂っています。たとえばカバーのない『東京のロビンソン・クルーソー』(一箱当日に売れちゃったのか、見当たりませんが)からは、すべての著作を集めないわけにはいかないのに集まらないもどかしさが、逆に黒い背表紙の大量の文庫本からは、本当に手元に置いておきたいものはそれほどたくさんはないのだけど(とはいっても両手では足りませんが)手放すのは躊躇してしまう心持ちが伝わってきて、ほんと他人事とは思えません。そしてオリジナル版の『虚栄の市』からは、決して安くはなかったであろうこの本を買ったときのNEGIさんの魂の叫びさえ聴こえてくる始末です(NEGIさん、間違ってたらごめんなさい)。

 この『虚栄の市』という小説には、ぼくにも個人的な思い出があったりします。

 ぼくはこの作品を、カバー無しの角川文庫版で読みました。高円寺駅の北口を出て比較的すぐのところにある古本屋で50円で買ったこの本は、今でも手元にあります。あまたある高円寺の古本屋のなかではあまり印象に残らない店で、この本を買ったこと以外には何も記憶に残っていないのですが、でも地べたに置かれた段ボールのなかからこれを見つけたときの、頭の中がじわじわ熱くなっていく感触は忘れられません。長いこと探してやっとカバー無しというのもなんだかしまらない話ですが、でもまあ例の金子國義のカバーが付いていたら、あの店には出てないかあるいは買えない値段だったに違いなく、そういう意味ではぼくが買うべき本だったのですね。

 高円寺に住んでいたその頃は学生時代の後半で、『小説世界のロビンソン』にもっとも影響を受けていた時期です。もう一冊の大切な道しるべであったモームの『世界の十大小説』と合わせ、外国の小説ばかりを読んでました。そんななかもっともどっぷり浸かったのは双方に高く評価されていたバルザックで、実家から送ってもらった全集の頁をせっせとめくっていました。50円で買った『虚栄の市』を読んだのはまさにそんなさなかで、たぶんこの小説読むタイミングとしてはこれ以上のときはなかったでしょう。

『1960年代日記』を読むと、小林信彦が刊行が始まって間もないバルザック全集を読みふけった記述があります。以下、その1960年8月28日分を引用します。

 長い一日。
 夕方から夜中まで、バルザックの「幻滅」(下)を読む。
 12・30、読了。
 第二部のリュシアン(主人公)の出世と没落の壮大さ! 今日のジャーナリズムの本質を見とおしているバルザックの眼に驚嘆。
 第三部は、「<絶対>の探求」と「ラブイユーズ」を混ぜたようなもので、面白くはあるが(プチ・クローという人物の描写光る)、やや古めかしい。この小説は、やはり、第二部に尽きる。二部と三部は、時間をあけて書かれたせいもあって、バラバラだ。
<才人>の道と、<努力>の道の二つは、私を深く動かした。私もリュシアンになるところだった。
<社会は道化物には娯楽しか求めず、これを面白がるが、またたちまち忘れ去る。しかし、偉大さには神々しい荘厳を求めて、その道にひざまずく。>(P160)

 新しく出るバルザック全集の第1回配本が『幻滅』というのは当時としてはすごい決断だったと思うのですが、銀色の函に味わいある字体があしらわれた庫田叕の素晴らしい装幀と合わせ、東京創元社の並々ならぬ気迫を感じます。そして、出版社の意気込みに応えるように多くの小説好きが貪り読んだことがそのひとりである小林信彦の日記からうかがえて、「良い時代だったんだなあ」と思わずにはいられません。もっとも「私もリュシアンになるところだった」とまで感じた人はそうはいなかったでしょうけど。

 それから数年を経て中原弓彦名義で出た処女長編『虚栄の市』は、そんなわけで『幻滅』から大きな影響を受けています。でもそこには嫌な感じはまったくなく、『幻滅』を読んだことによって喚起された情熱と勢いが真っ直ぐなかたちで小説に反映されているさまは、とても気持ちがよいものでした。ちょうどバルザック漬けだったことで、昔小林信彦が感じたであろう心の高ぶりと同じようなものを自分も感じられたような、うれしいような安心したような気分になったことを憶えています。


 学生の頃、年配の小林信彦ファンと話したりすると「評論は良いけど小説は下らん」というような意見をよく耳にしました。「評論がよいのはもちろんだけど、小説も好きだけどなあ」というのがその頃からのぼくの一貫した思いで、NEGIさんの箱を見たときはそういう気持ちが甦ってくると同時に、「小林信彦の新作小説を読む機会なんてきっともうほとんどないのだろうなあ」という一抹の寂しさも覚えたのでした。まあこれは、ぼくが最初に読んだ小林信彦の本が新潮文庫版の『神野推理氏の華麗な冒険』だった、ということも大きいのでしょうけど。中学生のときかなあ、名古屋駅地下の三省堂でこの本を買ったときのこともこれまたよく覚えているのですが、それはまた別の話ですね。

(宮地)