水族館劇場

koshohoro2007-06-05

火薬の匂いに、あぁ、これだよこれ、と臭覚が記憶の扉を叩き、いよいよ始まる桃山宇宙に身を委ね、眼前で繰り広げられる夢の世界に浸る心地よさ、徐々に向かいつつあるあの壮大な仕掛けが展開するラストは観たいけれどまだ終わって欲しくない、もう少しこの世界の住人で居させて欲しいと泣きたくなるような切なさ、テントを後にして帰る道すがら耳に蘇る役者さんたちの声、バックに流れていたメロディー。

数日間、日常からすくいあげてくれた夢の世界は、少々の酒臭さを残してまるで狐につままれていたかのように跡形もなく消え去り、わたしたちはまたほうじ茶を沸かし水筒に注ぎ、弁当をつめるいつもの日々に戻ってゆく。水族館のあとはそんな毎日も少しだけ愛おしく感じる。




わたしが生まれ育った家の隣に丹波(仮名)さんというお家があった。テントやロープを作っていて、隣近所は毎日毎日丹波さんちの工業ミシンの音を聞きながら暮らしていた。
僅かな傾斜地に建つ丹波さんちは、こどもにすら笑い顔を見せない縫製職人のじいさんが建てた家で、それを知った時には、大工じゃなくても家が建てられるんだとびっくりしたけれど、その基礎はあきらかに傾斜に従って歪んでいた。
一階の壁はどうにか下見板張りになっているのだけど、途中で諦めてしまったのか、家の大部分は波板トタンと深緑色のテント布で覆われていて、窓枠にはガラスが入っていないところが多く、まるで外みたいな家だ、中に入ってみたいなとぁ、今にも口から飛び出しそうな欲望を飲み込みながら、こどものわたしは自分の家の物干からそっと観察していたのだった。
丹波さんちには、そのじいさんと、粉を被ったみたいな白髪に前歯が上下一本ずつしかないばあさんと、毎日必ず金切り声をあげて子どもたちを叱る母さんと、あばら骨が浮かんだギョロ目の父さんと、わたしと弟と同じくらいの年頃のこどもたちが暮らしていた。
東京タワーの麓の数十年前の話しだ。
バブル期、丹波さんちはどこか遠くの町に越して行き、今では背の高いオフィスビルが建っている。わたしの家も昨年祖母を見送って更地になり、すべてが跡形もなくなってしまったけれど、丹波さんの外みたいな家と住人たちがずっと私の中に棲みついていた。

あれから長い年月が過ぎ、自分が暮らす町に水族館劇場が現れ、今こうして夢中になっている。

今年の水族館はわれわれの想像の及ばない幾多の困難を乗り越え、多くの客入があって、千秋楽の幕がはねたあと打上げで役者さんたちがいい顔をしていたのがほんとうによかった。今回はこれまで以上に役者さんひとりひとりがいきいきとして見えたし、個性が際立っていて、また観たいと思わせる魅力があった。誘った友人たちをはじめ、あちこちから「また来年」という声が耳に届いた。



何事にもそうで、人に自分の気持ちをうまく表現できないわたしは、なかなか水族館への思いを伝えられないのだが、桃山さんのお誘いもあって、自作の烏龍味玉を売ることで、何か伝わればいいなと、宮地と共に賑やかし参加をさせてもらったのだった。たった二日間ではあったし、賑やかしになったのか、薄ら寒さを振りまいたのかは微妙なとこだけど、楽しい経験をさせていただいた。
いきなり現れた謎の卵売りから、楽しそうに買ってくださったみなさま、美味しいよと声をかけてくださった方々、残りを幕間で売ってくださった水族館の方々、差し入れをしてくれた山崎・神原、準備の場所を提供してくださった光源寺のご住職ご夫妻、どうもありがとうございました。

そんなこんなで、前夜の仕込中ゆでた卵にコツコツとスプーンでひびを入れることに疲れると、ふと表に出て、公演中のテントを外から眺めていたのだった。役者さんたちが舞台を降りた瞬間に裏方に転じ次の幕に備え素早く動き回るさま、影絵のようにテントに浮かび上がる彼らのシルエットは息をのむほど美しかった。

(ミカコ)