アンスネス!アンスネス!アンスネス!

 レイフ・オヴェ・アンスネスのピアノ・リサイタルに行ってきました。生で聴くのは初めてで、とても期待していたのですが、それをも上回る演奏。これは、ひと言でいってモノが違いましたよ。最後の『展覧会の絵』が終わり、思わず小さな雄叫びをあげ、立ち上がって拍手をしていると、なんと頬に涙が。言うまでもないことですが、こんなことは滅多にありません。

 そんなわけで、興奮覚めやらぬうちにアンスネスの魅力をお伝えしようと思うのですが、さて何からお話ししましょうか。

 最初に気付いたのはこの人の細部へのこだわりです。ひとつの曲のどの部分をとっても適当に弾かれたりしているところはありません。テンポや音量はもちろん、和音のなかのどの音をどういうふうに響かせ、また響かせないか、といったことも、実によく考え抜かれています。それにまた、その響きの美しいこと!

 でもそんなことは、コンサート・ピアニストなら特にどうということでもないでしょう。この人の優れているところは、そのような細部のひとつひとつがそれ自体で浮き上がったりせず、曲全体の流れのなかに自然に収まっているところです。だからぼくたち聴き手は、奏でられる音楽のなかにすっぽり包まれ、身を任せていればよいのです。その気持ち良さと言ったら! 

 たとえば、前半の最後に演奏されたベートーヴェンの32番の第2楽章。深い祈りのこもった簡潔な主題が、天上をたゆたうように次々と変奏でるされてゆく、ぼくにとってもとても大切な曲。本当に素晴らしい演奏で聴くと、時間の感覚がなくなって、この美しいうたがいつまでもいつまでも続いていくような錯覚にとらわれ、夢見心地になってしまうのですが、今日がまさにそうでした。

 このハ短調ソナタは、これまでも録音を含め、さまざまな演奏を聴いてきました。でも、これほど満ち足りた気持ちにさせられたことはなかったんじゃないかと思います。実は先月もイーヴォ・ポゴレリッチで聴いたばかりだったのですが、その演奏はうまくぼくをとらえてはくれませんでした。それどころか、ひょっとしたら自分はこの曲に倦んでしまったのかも、なんて思いさえ浮かんでくる始末。そういう意味でも今日は、とてもうれしかったし、安心しました。
(ちょっと脱線しますが、大好きなポゴレリッチの名誉のために付け加えると、まあ席も悪かったんです。サントリー・ホールでピアノを聴くにはもっとも不向きな場所。実際、席を移った後半のグラナドスとリストは、らしい名演でした。でも、自分に曲を引きつける彼の行きかたがハマらなかった典型的なパターンだったのも確かかと。まあ単に今のポゴレリッチでベートーヴェンはちょっと、というぼくの個人的な嗜好の問題、つまりぼくにハマらなかっただけかもしれませんけど。)

 実は今日の演奏会は、そもそも別の用事とかち合っており、諦めていたものでした。それが急に予定が空き、しかも安いチケットも見つかり(クラシックチケット掲示板にて2500円)と、まるで何かに導かれるようにして、今晩ぼくはオペラシティのコンサート・ホールに足を運びました。もっと言えば、もともとは明後日(10日)の与野での演奏会の方が本命だったのです。そちらはあまり聴く機会のないシベリウスの小品を含むプログラムで、正直全然魅力的でした。でも、まさに結果オーライ。与野でもきっと素晴らしい演奏は聴けたでしょうが、たぶん、初めて聴くような曲ではなく、よく知っている曲だからこそ、このピアニストのことを自分なりに理解することができたのでしょう。

展覧会の絵』を1曲通して聴いたのなんて、何年ぶりかな。CDでももう長い間聴いていないし、生演奏となるともうちょっと思い出せないくらい。つまりもう自分にとってはほとんど必要ない曲になっていたのです。にもかかわらずこれほど心を奪われるなんて。わからないものです。


 久しぶりの非番だったこともあって、今日はほかにもいろいろ詰め込みました。

 新文芸坐では、吉村公三郎特集6日目。ニュープリントの『電話は夕方に鳴る』がお目当てだったのですが、期待に違わぬ面白さ。スターと呼べそうな人がひとりも出ていないにもかかわらず(あえて挙げれば船越英二)、約2時間弱、まったく飽きさせない吉村&新藤コンビの手腕には恐れ入りました。殿山泰司伊藤雄之助中村鴈治郎といった、スクリーンに登場するだけで思わずクスリとさせられる面々にもいつもながら楽しませてもらいましたが、小野道子演じるミステリー狂のインテリ秘書が可笑しかったです。あと、舞台となる倉敷の町並み(瀬戸内の架空の町として設定されていましたが、あんな美術館他にないでしょう)を雰囲気よくとらえたカメラワークにも痺れました。

 映画の前後には中古盤屋にもちょこっとだけ。先月いい思いをした池袋のレコファンには、バルセロナのレーベルensayoのものが何点かありました(トゥリーナのピアノ曲集や知らない作曲家のサルスエラなど)。このレーベルにはホアキン・アチューカロの『夜』やフェデリコ・モンポウの自作自演集などのお気に入りのアルバムがあり、よいイメージを持っているのですが、今回はなんとなく見送り。また、持ち時間が10分ほどしかなかった新宿ディスク・ユニオンのクラシック館では、メキシコの指揮者エンリケ・バティスがファリャの『恋は魔術師』やお国ものの作品を振ったCDをみつけたのですが(1050円/オケはメキシコ州立響)、これも迷う時間すらなくて見送りました。見つけたCDを片手に店内をぐるぐるしてからでないと買い物ができないタイプなので仕方ないのですが、これは買っとけばよかったかなあ。

(宮地)