「ミステリーズ!」から『笑傲江湖』へ

秘曲 笑傲江湖〈1〉殺戮の序曲 金庸武侠小説集 (徳間文庫)
 夜になって、金庸武侠小説が買い取りでたくさん入ってきました。徳間文庫版が17冊。ほとんどに書泉のブックカバーがかかっていたのですが、外しても外しても金庸で、驚くやらうれしいやら。というのも、ちょうど昨日から同じ作者の『秘曲 笑傲江湖』を読みはじめ、評判通りのおもしろさにたちまち惹き込まれたところだったので。もちろん売りにみえたお客さんはそんなことご存知のはずもないのだけれど、もしこれが先週だったら買取り価格はまた違っていたかも。まあなんにせよ、これは「もっと読め、どんどん読め」という天の声なのでしょう。

 こんな仕事をしているので、金庸という名前や、彼や中国武侠小説についての岡崎由美さんの精力的な仕事については、ずいぶん前から知っていました。そもそも中国が舞台のお話は大好きなわけですし、「読み出したら止まらない」という噂もあちこちから聞こえてきます。でも何となく敬遠していたんですよね。なんか取っ付きにくいような気がして。どうも胡散臭い気がして。それがどうして急に読んでみる気になったか、というのが今日のお題。


カシタンカ・ねむい 他七篇 (岩波文庫)
 日々録をさぼっていたこのひと月ほど、おかげで本はたくさん読めました。思いつくままに挙げてみると、まず岩波文庫チェーホフ『カシタンカ・ねむい』。お話自体はほとんどが既読のものでしたが、巻末に訳者神西清によるチェーホフ論2篇が収められているところがミソで、誰かが書いてたけどこれはチェーホフの、というよりは神西清の本なんでしょうね。何年か前にみすず書房から出た山田稔による『短篇と手紙』といい、ここしばらくの日本ではチェーホフについての素晴らしいオムニバスがたくさん出ました。願わくばこの勢いに乗ってちくま文庫の全集も復刊されないかしら。まあ誰かが売りに来てくださればそれでもよいのですが。高く買いますので、ぜひ。

 小池昌代さんの『屋上への誘惑』もしみじみとよかったなあ。室内楽のコンサートで、隣に座った女性のもらした「かすかに聞き取れるほどの深いため息」に、ひとり感動を共有する話とか、忘れがたいです。あと、特別親しいわけではない男性に突然あごをしゃくられたときに感じた「ロマンティックな乱暴」の話なんかも。そうそう、はじめての競馬場に行ったときの文章にはこんな一節が。

 自分はここにいて、馬にたのむ、もはや自分のちからの及ばない世界に「希望」のようなものを派遣する・・・。賭けるということは、なんと寄る辺ない行為だろうか。たったひとりの、世界との綱引きだ。綱の先端を馬が口にくわえている。もう一方の端を人が握りしめて。その綱は見えないし脆くてすぐに切れる。それなのに、その脆さに、投げ捨てるような金額を投資するのだ。大損をするのも、儲けることも、酩酊のふかさでは、同じくらいの恍惚感があるのではないだろうか。

屋上への誘惑 (光文社文庫)
でもこの作品が光文社文庫に入ったというのは、「光文社=カッパ」が刷り込まれているものとしては驚きでした。まあ岩波文庫というわけにもいかないのでしょうけど(元版は岩波)。古典新訳文庫の快進撃といい、ここのところの光文社の変貌ぶりには恐れ入りますねえ。新しいカバーの背表紙のデザインは好みではないけれど。

 あと、『明治バベルの塔』をきっかけにはじまった山田風太郎の明治もの再読も、ゆっくりとしたペースで進んでいます。歩みがのろいのは、寝床に入ってから読みはじめることが多く、たいていすぐに眠ってしまうため。でも、さっきの金庸同様、不思議と関連した本が店に入ってくるんですよね。村松梢風の『川上音二郎』とか、『勝海舟の嫁 クララの明治日記』とか、荒畑寒村の『平民社時代』とか。まあそこまでは手を伸ばせないのですが。


 と、ぜんぜん金庸のところまで話が行きませんがもうすぐです。前ふりが長くなりましたが「でもこのひと月の読書の流れにもっとも影響が大きかったのは、実は「ミステリーズ!」という東京創元社の雑誌だったのですよ」というのが今日の本題。去年の12月号ですが、買い取ったのは先月の初め頃。たしか「小説現代」とか「小説新潮」などと一緒に入ってきたのですが、すぐに均一棚に出されたそれらとこの雑誌を命運を分けたのは、表紙に刷り込まれた「読切 米澤穂信」という文字。米澤穂信読破が佳境に入っていたこともあって当然のようにキープして家に持ち帰ったというわけです。最初に読んだのは、もちろんその作品「恋累心中」。『さよなら妖精』で強い印象を残した大刀洗万智の10数年後が描かれているというだけでファンとしてはたまらないわけですが、そうでない人にも十分楽しめる佳作。おすすめです(とは言っても、本になるのははるか先のことでしょうから、読むとしたらこの「ミステリーズ!」を手にするしかないのですが)。
サッカーボーイズ 再会のグラウンド (角川文庫)
 さて、普段だったらこの雑誌もこれでお役御免、店に戻して均一行というところですが、今回はなぜか家の座椅子の側にずっと置かれていて、結局ちょっとずつほかの作品も読んでいくこととなりました。その中でまず気に入ったのは冒頭に置かれた新連載、井上尚登の「カンガルーの右足」。相模原市を本拠地とする架空のサッカー・チームを舞台とした、ホペイロ(道具係)を探偵役とする、いわゆる「日常の謎」ものミステリー。J2を目指すJFLのチーム、という設定がとてもよくって、J2にいた頃のアルディージャを思いおこしながら楽しく読みました。レッズやマリノスのサポーターにとってはあまりピンと来ないかもしれないけど、フロンターレとかヴァンフォーレを古くから応援していたような人なら、しっくりくるんじゃないかなあ。スタッフやファン、サポーターひとりひとりの存在が相対的に大きく、その関係も近しい感じ。そのあたりのことを実感としてよくわかったうえで書いているなあ、井上尚登いいじゃん、ということで、ほかにも『クロスカウンター』というのを読んでみたのだけど、これはまたちょっと違う感じでした。正直この作家のことはまだよくわかりません。あと、また脱線しちゃいますけど、サッカー小説ということで言えば角川文庫から出たばかりの『サッカーボーイズ 再会のグラウンド』というのも良かったですよ。はらだみずきという人が書いたYA向けの作品。不覚にも泣いてしまいましたよ。


 でも、この「ミステリーズ!」26号における最大の収穫は、実のところ書評欄にありました。翻訳家の中村有希さんが秋梨惟喬という人の書いた『もろこし銀侠伝』を紹介した頁。

中国が舞台の冒険物語が大好きなので、舞台設定だけでもわたしにとってはポイントが高かった。登場する妖しげな仙人もどきの探偵、人間わざとは思えない武術による活劇、風情ある古代中国の町並み、と『西遊記』ファンにはたまらないエッセンスがてんこもり(以下略)

もろこし銀侠伝 (ミステリ・フロンティア)
という書き出しを読んですぐ「これは読まなきゃ」と思い早速図書館で取り寄せたのですが、これが想像通りツボでした。まあ謎解きの部分についてはとやかく言う人もいるでしょうけど、ぼくはガチガチのミステリー好きではないし、上手に物語に入れてもらえさえすれば、この設定だけで十分。そして、あっという間に読み終わり「ああ、もっとこんな感じのお話がいっぱい読みたいんだけどな」と色々調べていくなかで行き当たったのが金庸だったのでした。というか、中国武侠小説の枠組みのなかでミステリーをこしらえたのが『もろこし武侠伝』だったのですね、たぶん。まあ、そんなわけで、「武林」だの「江湖」だのといった馴染みのない言葉にもある程度慣れ、からだが暖まってきたところで『笑傲江湖』に入っていったのでした。お昼ごはんのとき読んでいたのは第1巻なのに、帰宅してから読み継いで布団に入るときにはもう第3巻、という勢いで、これは自分にとって今年一番の発見になりそうです。

(宮地)